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コロナでパニックの日本
日本では、コロナによる対応でパニックが起きているみたいですね。
合説が中止になって困っているという友人の話もいくつか耳にしましたし、
わたしの地元では、卒業式への生徒・学生以外の参加が県単位で禁止されたらしいです。
弟が今年高校を卒業するので、母が悲しんでいました。
そしてさらに、公立学校が臨時休校となったみたいで、私の大好きなTwitterは文句で盛り上がっています(笑)
しかしTwitterというのはかなり意見が偏る場ですので、冷静に今の状況を見て、私なりに考えたいなと思いブログを書き始めた次第です。
今1番盛り上がっている全国の公立小中学校休校に関しての以下の2つの批判について考えてみました。
①親はどうする
②自治体単位で決めればいいのに
①親はどうする
私がTwitterでフォローしている人の多くは、
・リベラル
・反現政権
が多く、さらにフェミニストの方の意見も多いです。
だから自ずと、タイムラインには政府批判の意見ばかり流れてくるのですが、その中でもやはり
「休校にしたら誰が子供の面倒を見るのか考えていない」
という意見がとても多く見られました。
そしてこれを
「いかに国会に女性がいないかを表している」
と結びつけるものもたくさん。
日本の現状では一般的に、
子育てを頭に思い浮かべる人=女性
だからですね。
(国会に女性がいないのは事実)
確かにいきなり子供が1ヶ月間も家にいるとなると、まだ小さい子がいる場合は困る家庭も多いかと思われます。
しかし、「コロナウイルスの感染を未然に防ぐ」という点では、この処置はあながち間違ってないのでは?とも思うんですよね、、。
あまりにも政府批判の意見が多いので、自分の主張に自信がないのですが、、。
ダイヤモンドプリンセスでの感染に関しては、対応が遅いと散々言われ、
学校で感染が広まる前に手を打ったら批判され、、、
では他の解決策あるんですか?と言いたくなりました。
休業手当を出すという対応にも
「そんな金どこから出るんだ」という批判もありましたからね、、。
②自治体単位で決めればいいのに
国として「全国の公立学校休校」というのは急すぎる、自治体ごとの感染の広まりを見て対応すべきではという意見も見られました。
実際つくば市では、一部学校を開放するなど独自の対応をしているらしいです。
しかし、もし政府が「自治体に任せます」と言ったり、何も手を打たなかったら、
それはそれで、
「指針を示してくれ」
「あの市はこうしてるのにうちの市は何やってんだ」
などの批判が出るのではないでしょうか。
数日前にこんなツイートを見ました。
アーティストのT.M. Revolution 西川さんのものです。
多大な労力を使って中止しても文句を言われ、開催しても文句を言われてしまう立場としては、政府に指針を示してほしいということでしょう。
しかし、学校に対して国全体への対応を示した結果がこれです。
自治体へ「自己責任」を押し付けなかった結果が国への批判というところでしょうか。
おそらく国としての指針を出さず、子どもの学校内での感染が高まった場合、自治体が攻められ、その後自治体に責任を押し付けたということで政府が批判されるのでしょうね、、。
今政府へ向かっている批判は全て「後出し」だな、と思います。
出された策に対してあとから文句を言うのはすごく簡単です。
そして出された施策のマイナス面ばかりが目立つ世の中なのです。
だって、この休校によって結果的に起こった経済的損失などはいくらでも数値で出せるのに、休校によって防げた感染数は憶測でしか出せないじゃん、、。
そして、マイナス面にフォーカスして炎上させた方が報道する側には都合がいいわけですしね。
コロナウイルスに関する報道は不確かなものばかりと言われていて、実際コロナがどれだけ脅威なのか私もわかっていません。
新型インフルエンザでアメリカでは1万人以上亡くなっているのに、日本からアメリカへは普通に渡航できますよね。
さらにその新型インフルでの死者の多くはコロナによる死者だったかも?なんてニュースも見ました。
何が真実かもうわかりません。
Twitterはバカみたいな極論がバズる、人間の闇で構成されたSNSなので、最近は見ることを意識的に控えています。
そんな極論や恐怖を煽るニュースに惑わされず、冷静に世の中を見ろとコロナウイルスは伝えてくれているのかもしれませんね、、。
なんて呑気なことを言えるのは私がイギリスにいるからだと思いますが、パニックを外から見ている側としてブログを書かせてもらいました。
平和に過ごせるうちは呑気にしていようと思います。
ではまた〜
『クィア・アイ in Japan』で泣いた
皆さん、『クィア・アイ』という番組をご存知ですか?
「ファブ5」と呼ばれる、ヘアメイク、ファッション、インテリア、料理、心のケアのプロフェッショナル5人組が、一般人依頼者を大変身させるというもの。
これの日本上陸版があったので見てみたところ、、、、大感動。
心が冷たい、映画やドラマで泣かないで有名な私が泣きました。
これは一大事です。
ネタバレはしないように気をつけながら、なぜわたしが涙したのかを紐解いていこうと思います。
わたしが思うこの番組の大きな特徴は以下の2つ。
①桁違いな規模の大きさ
「一般人を変身!」系番組は日本にもありますが、『クィア・アイ』は規模が違う。
インテリア担当がいることでお分かりかもしれませんが、部屋、または家の中身を家具から壁紙まで全て変えてしまいます。
依頼者個人を変身させるだけでなく、空間から変えることの大切さをよく語っています。
服も、変身後の1着だけでなくクローゼット全て入れ替えてしまう。
その日1日のための変身ではなく、その人の人生を変えようとしている本気度が見えます。
Netflixってそんなにお金あるんだ、、、とめちゃくちゃ驚きました。
②褒めて褒めて褒めまくる
基本的に依頼者は自分に自信がなかったり、自分に気を使うことを諦めている人が多いです。
そんな中、ファブ5は日本ではちょっとクサイんじゃない?というセリフで依頼者を褒めまくります。
ただ薄っぺらく褒めるのではなく、もちろん悩みを受け入れた上で、言葉をかけるのです。
日本人は自分含め身内を「下げる」ことが一種の礼儀とされる文化があります。
自分や家族を自慢することは顰蹙を買ってしまうし、身近な人ほど蔑ろにしてしまう傾向がある気がします。
本来、1番自分の価値を認めて欲しい人、認めるべき人との距離が遠いのです。
この『クィア・アイ』では、そのような文化がいかに個人の自信のなさを作り上げてしまっているかが現れています。
全体を通して5人は
「あなたにはあなたの人生を楽しむ権利がある」
というメッセージを伝えており、
どの依頼者も
「こんなことを言われたのは初めて」
「こんなに人に認められたり、褒められたりするのは初めて」
と口にして涙します。
これがまさに日本の「協調」文化の負の部分だと感じました。
自分の人生を生きるはずが、いつのまにか、人に合わせることを目的に生きている。
この部分に共感し、依頼者が自分の価値を認めていいんだと気づく様子にわたしも涙しました(笑)
おそらく4エピソードを見る中で、日本社会で生きてきた人ならば共感できる箇所が必ずあるはずです。
「協調」の負の部分と書きましたが、もちろんアメリカなどで見られる「個」の教育にも負の部分はあると思います。
余談ですが、先日ニューヨークに行ったときに、友人の通う大学の授業に1つ出席させてもらったのですが、
クラスメイトが「え、そんなこと授業中に質問する?」ということを平気で質問します(笑)
そのときは、家族へのインタビューという最終課題に関する説明をしていたのですが、
「私のお父さん絶対答えてくれないんだけどどうしたらいい?」
というようなことを先生の説明を遮って話す子や、
「インタビューを自然に見せるためにスナックとか食べてもらった方がいい?」
と聞く子もいました(笑)
私は一回の出席だったので、ある種のカルチャーショックを楽しんでいましたが、これを毎回やられたらちょっとイラッとしそうですよね(笑)
だから、「協調」にも「個」にもネガティブな面はあるのですが、『クィア・アイ』を見ていると、日本では、自分を集団の中の1人としてしか認識できていないんだなぁと感じてしまいました。
ちなみに『クィア・アイ』の海外出張版は日本のみです!
こんなにも文化が違い、そしてまさにファブ5のような人を必要としている日本を選んでくれて本当に感謝!!
この4エピソードを見たあと、本家『クィア・アイ』も見たのですが、やはり日本社会への共感があるからこそ圧倒的に日本版の方が感動しました。
もちろん本家もおもしろいですけどね!
なかなか突然身内を褒める文化を作り出したりするのは難しいですが、せめて学校教育などで、
「わたしは自分の人生を生きていいんだ」
と感じさせてくれる場があればいいなと思いました。
よかったら『クィア・アイin Japan』見てみてください!
ではまた〜
エモいってなに
わたしは「エモい」という言葉があまり好きではない。
極力使わないようにしている。
なんとなく、なにも考えてなさそうに聞こえる言葉だから。
「エモい」って言えばいいと思ってるだろ?
「エモい」ってなんだよ??
「エモい」に逃げずにちゃんと感想言えよ???
とずっと思ってきた。
エモいを使っている皆さん、すみません。
敵に回したいわけじゃないので、一意見として見守ってください。
なぜなら、これは間違っているのかもしれないと気づいたからだ。
先日ある動画を見た。
動画投稿者が「エモさ」を推して宣伝していたこともあってか、コメント欄にある肯定的な感想の9割が「エモい」で占拠されていた。
それを見て
「他に感想ないのかよ」
「エモいって言えばいいと思いやがって」とイラッとしたのだが、ふと冷静に考えてみた。
「エモい」の代わりにどんな表現が使われていたら私は満足したのだろうか。
「やばい」?
「ドキドキする」?
「心が揺さぶられる」?
「まるで昼と夜の間を行き来しているよう」?
上の2つはありきたりだけど特段イラっとはしない。
下の2つは、なんだかそれっぽく聞こえなくもない。
私は、勝手に言葉に優劣をつけていたのだ。
「エモい」も言葉のひとつなのに、「新しい」という理由だけで食わず嫌いし、使う人の感性まで否定してしまっていたのかもしれない。
「まるで昼と夜の間を行き来しているような気持ちになりました」
と書けば、人と違ってちょっとかっこよく聞こえて、この人すごい人なのかもなぁなんて思ってしまうのかもしれない。
実際何を言ってるのかよくわからなくても。
言葉とはラッピングみたいなもので、本当はそれだけじゃ中身を理解することなんてできない。
だからこそ、言葉を見てその人の感性までをも疑うのではなく、中身を知ろうとしなければならないのだと常々感じる。
そして、往々にして新しいものは嫌われがちである。
だから、新しい概念やルールは、それの良し悪し以前に「新しい」というだけで受け入れられにくい。
私はまだ20歳なのに、既に新しいものを毛嫌いする悪い傾向を持っている。
あれだけ興味がないと言っていたYouTubeにハマり出してからは、この癖を改めようと決意したのに。
言葉はただの表現だというのは事実なんだろうけど、ブログという媒体で言葉を綴っている以上、それっぽく聞こえる言葉を、飾りとしてではなく、心から溢れる言葉として紡げるようになりたい。
そのためにはやはり、新旧問わず、「良い」と思うものを吸収していきたいなぁと感じるのです。
ジェンダー問題はみんなのもの
先日、友人男性と話していた時のこと、
彼には、私のフェミニズムに関する考えなどをよく話してきていたのですが、
「やっぱりしおりの男女平等の考えには賛成できない」と言われてしまいました。
大きな理由として
男女平等を謳っているのに結局女性優先になっているところ
だと言います。
例えば、女性専用車両に関しては、
女性のために女性のためだけの車両を作ることは優遇ではないのか、
女性にとって有益なことは差別にならないのか、
「平等」というなら何もするべきではない
と言うのです。
私の意見としては、
女性専用車両は女性を優遇するものではなく、
女性が男性と同じ心持ち、つまり痴漢を恐れず電車に乗ることができるようにするものだと思っています。
女性専用車両があって初めて、対等になる。
もちろん男性に対する痴漢もあることは事実ですし、痴漢をなくすことができればそれが一番いいのですが、現状では、女性が対等な気持ちで電車に乗るには女性専用車両を作るしかないということなのでしょう。
こう考えると、以前ブログでもお話ししましたが、平等という言葉はふさわしくないし、批判を生む原因になってしまうとも感じました。
そしてさらに彼は、
フェミニズムが高まることで、女性なら何をしてもいいという雰囲気になり、男性が不利に感じるとも言っていました。
二つおもしろい例を挙げてくれたので紹介します。
まず一つ目は、女性ばかり男性に攻撃されているという世論に対し、
「女だって男をたたくじゃん。この間1人でタピオカ屋に入った際、集団のJKにじろじろ見られましたけど。」
と言うのです。
タピオカといえば若い女の子というイメージが作り上げられてしまったせいで、確かに男性は1人で入りづらいのでしょう。
こうやって男だって女に挟まれて生きづらいのに、女性の権利拡大を訴えるなんてそれこそ不平等だというのです。
さらに二つ目、セクハラに関して。
例えば、TV番組でおじさんが若い女の人の体を触ったとしたらどうでしょう。
「いい体してるね。」と。
考える間もなく、これはセクハラと多くの人が思うはずです。
では、逆を想像してみてください。
おばさんタレントが若い男性の体を見て、「いい体してるね~、触っていい?」と言ったらどうですか?
この場面は、なんだか見覚えがある気がしませんか?
セクハラと取り上げられるわけでもなく、普通にTVで見る光景ではないでしょうか。
私の友人は、この例を挙げて、なんでおばさんは許されるのに、逆はだめなんだ、と言います。
(これに関しては、女性の体が性的に消費されてきたという歴史があり、もともと、そして現在も、
「男性にとっての女性の体」と「女性にとっての男性の体」、
そして「世間的に見た男性/女性の体の見られ方」はかなり異なるので、そこを考慮しなければならないのですが、いったんそれは置いておくと、)
全くもって彼の言う通りです。
女性の体は触ってはダメで、男性の体は触ってはいいなんてことはありません。
この、彼が挙げてくれた例は二つとも、
ジェンダーに縛られる苦しさを表していると思います。
性別に関わらずタピオカを飲みたいし、
男だからと言って体を触られたいわけじゃない、と。
ではここで一旦、こちらの動画を見てください。
(私のInstagramのストーリーでも共有したものです)
これはオランダのビールブランド、ハイネケンのCMです。
男性にはビールが渡され、女性にはカクテルが渡される。
これが世の中の思うジェンダーだけど、実際はそんなことないんだと伝えています。
このCMで最も私が感動したのは、最後のテロップが
Men drink cocktais too. (男だってカクテルを飲む。)
だったところです。
Women drink beers too. (女だってビールを飲む。)
ではなく。
ハイネケンはビールブランドなのに!
オランダは、世界でもトップレベルにジェンダーの議論が発展しており、性教育もかなり進んでいると言われています。
LGBTQに関しても、2000年には同性結婚法が制定され、2001年に施行されています。
オランダは、世界で一番早く同性婚に異性婚と同じ制度を採用した国なのです。
私がまだ1,2歳のころ、既にはるか遠いオランダでは、同性婚が認められていたなんて信じられません。
こんなオランダだからこそ、
Men drink cocktails too.と言えたのではないでしょうか。
日本でならば、Women drink beers too. だったでしょうし、それでも日本の広告としては、お酒のCMにジェンダー問題を取り上げた目新しいものになったと思います。
何が言いたいかというと、
日本では、「ジェンダーについての対話=女性のもの」という認識が強すぎるのです。
タピオカの話も、おばさんがお兄さんの体を触る話も、全部、ジェンダーの問題。
でも、日本では、まだジェンダーという概念の浸透度も低く、この言葉を聞くと、女性の権利拡大運動に結び付ける人が多くなってしまいます。
しかしそうではなく、タピオカが好きか、ビールが好きか、体を触られたくないか、を決めるのは、「女か男か」ではなく、「あなたがどう思うか」なのです。
普段生活していて、生きづらさ、不快感を抱いたとき、それが、男/女の枠に入れらているせいではないか考えてみてください。
そうすることで、「ジェンダー」という言葉が、もっと身近に感じるはずです。
ジェンダーに関する議論、フェミニズムに関する議論って根本はこういうことなんだと、もっと多くの人が気づけたらいいなと日々思っています。
ではまた~
コロナウイルスの脅威
新型コロナウイルス、ついに中国での死者数がSARSを超えてしまいましたね。
小さい頃に世界仰天ニュースで見たSARSの恐ろしさを今でも鮮明に覚えています。
今回の新型コロナウイルスがあの衝撃映像よりも酷いと考えると恐ろしくてたまりません。
イギリスにいるわたしは地理的に日本よりも安全だなと思っていたのですが、それも束の間、1月31日のBrexitとともに感染者ががイギリスにも確認されました。
この、イギリスへの新型コロナウイルス上陸は、ここで過ごすわたしにとって2つの意味で脅威となります。
1つ目はもちろん、感染への懸念。
そして2つ目は、(東)アジア人差別。
イギリスではまだ感染者はNewcastleでしか見つかっておらず、わたしの住む地域とは遠いので、正直そこまで警戒していません。
「ついにイギリスに来たんだけど!やば!」と言っていられるほどには安全です。
しかし、2つ目。
こちらの方がわたしにとっては怖いのです。
日本では中国人差別、世界的には東アジア人差別が起きていると言われていますが、これが本当ならばわたしは差別される側にあたります。
実際、現在空港にいるわたしは、なんだかいつもより他人の目線が気になる気がするのです。
日本人にとって、感染症が流行ればマスクをするのは当たり前。
どこでも売り切れ続出らしいですね。
しかしイギリスでマスクをしているのはアジア人だけです。
それも東アジア人。
中国人か日本人か韓国人だろうな、という人しかマスクをしているところを見たことがありません。
今朝、空港へ向かうために乗った電車の中でも、乗っていた車両でマスクをしていたのはわたし1人だけでした。
そんなこんなで、なんだかいつもより目線が気になるような気がしないでもない。
それも自意識過剰かもしれない。
まぁ真相はわかりません。
でも、連日の報道を見ていれば、自分の身を守るためにちょっと怪しい人を避けてしまうのも無理はないかなとも思ってしまいます。
こんなとき私は、
「私は中国人じゃないし、今はイギリスに住んでいるんだ」
と強調したくなってしまいます。
今日はいつもつけているパスポートカバーを外して持ち歩いたりもしてしまいました。
こういうところに日本人の悪いところが出ているなと感じながら。
これは私だけはなく多くの人に当てはまる気がするのですが、
なんとなく、「アジア人」として一括りにされるのではなく、「日本人」であることを誇りに思うことってありませんか。
他のアジア諸国と比べると先進国になったのは早く、
日本のパスポートは2020年、1番の強さを持っている。(ビザなし渡航可能国数最多)
なんとなく、日本は世界に認められていると日本人は思いがちな気がします。(そんなこと思ったことないという人がいたら教えてください。)
こういうところからも、アジア人としてではなく、日本人だと主張したくなる人は多いのではないでしょうか?
この、「東アジア人」全般に差別の目が向けられている状況で、
もし私たちが差別まがいのことをされたときは、
「中国人じゃない」
と反論するのではなく、
「人種で差別するな」
と反論すべきなのです。
Twitterを見てても、そこを履き違えている人が多すぎます。
アジア人だからと言ってみんなコロナウイルスを持っているわけじゃない。
それなのに「アジア人」とまとめて差別してくる人に対して自分が日本人であることを主張し、コロナは中国のものだと言ってしまったならば、差別している人とやっていることは同じです。
日本が様々な面で素敵な国であることは事実です。
でもそれが強調されすぎているが故に、無意識のうちにアジア人を見下している気がするのです。
このコロナウイルスによる東アジア人差別をきっかけに、無意識に中国人ではないことを主張して優位に立った気でいないかどうか、考えることができたらいいなと思います。
では、私は旅行を楽しんできます〜。
ではまた〜。
日本語と英語の根本的な違い
留学を半年終えてからようやくこんな記事かい!とお思いの皆さん、おっしゃる通りです。
ですが、書かせてください。
日本語は遠回しな表現が多い、とよく聞くのですが、その真の意味がわかった出来事をお話しします。
友達と駅に向かって歩いてた時のこと、
突然雨が降ってきたのに傘を持っていなかったわたしは、
「濡れちゃった!」と言おうと思い、表現を考えました。
I got wet by rain. かなと思ったのですが、
直訳してみると「雨に濡れた」になります。
するとなんだか、故意に雨に濡れに行ったのか、油断してたら雨に降られたのかわからないなぁと思ったので、
「意図しないで雨に濡れた時ってなんて英語で言うの?」(What do you express the situation when I get wet unintentionally?)と聞いてみました。
すると、「そのまま言えばいいんだよ😂」と言われてしまいました。
そのままと言うと、
I got wet unintentionally.
んー、、
「私は不本意に雨に濡れた」
じゃなくて
「雨に濡れちゃった」
って言いたいんだよなぁ、、、と
モヤモヤしたのです。
そんなことがあってから時が経ち、
日本語を勉強しているイギリス人学生と話していた時のこと。
「日本語は本当に間接的な表現が多いよ。
『忘れちゃった』と『忘れた』で意味が変わる!」
と彼が言うのです。
ん???もしや??
なんだかモヤモヤがとれそうになる。
そこで私は、
「も、もしかして、英語だったらunfortunately I forgot my umbrella って言う?」
と聞いてみたら、
「そうだねーそれしかないね😂」
と。
なんだか全てが解決した気持ちになりました。
今まで英語を勉強してきた中では、
Unfortunately I forgot my umbrella. は
「私は不運にも傘を忘れた」と訳すことが正解とされてきました。
でも本当の訳は、
「傘、忘れちゃった」なのです!!!
日本語では「ちゃった」という何の意味も持たないような言葉に「unfortunately 」の意味が隠れているということです。
でも英語に「ちゃった」のような表現はありません。
だからunfortunately と口に出して言うのです、、、!!!
今まで思っていた「日本語は間接的」は、
表現を遠回しにしたり、ぼかしたりすることに対して言っているのだと思っていました。
でも違ったのだとここでようやく気づきました。
英語は「単語」が全てを物語る。
語尾や助詞一つの違いで意味全体を変えてしまう日本語とは大違い。
これが「日本語は間接的だ」「英語は直接的だ」と言われる所以だったのです。
こう考えると、
英語と日本語というのは言語体系が根本的に異なります。
だから教科書で習う文は全部不自然に感じていたんだなぁと思ったわけです。
「不運にも」なんて誰が会話で使うんだよ、と思いませんでしたか?
これを踏まえると、
日本語のような、多くの言語と似つかない言語を話す人が、他の言語を学ぼうとするときに1番意識すべきなのは文脈です。
単語の直訳を覚えることではありません。
「傘」「忘れる」「ちゃった」
のそれぞれの対になる英単語を勉強するのではなく、
雨に降られたときに、何て表現するかを知る必要があるということです。
大学で英文学のおじいちゃん先生が言っていました。
👨🦳「Good morning. 日本語に訳してみろ」
👩🏻「おはよう」
👨🦳「ばかやろおぉぉおう!!!良い朝だろうがぁぁぁあああ!」
と。
その通りです。
Good morning は良い朝。
でも、日本人は朝知り合いに会ったとき「おはよう」と言い、
英語話者は’Good morning’という。
これを発見した最初の人が
おはよう=Good morning
という常識を作り出したのでしょう。
これに気付いてから、
「この状況英語でなんていうんだろう?」と思ったことをそのまま伝えるようにしています。
言ってる私はまだ少し違和感がありますが、それが英語というものらしいです。
これをもう少し早くに気付けていたらなぁ、、と思ったのでシェアさせていただきました。
これに気付いた時の私の興奮が伝わってると嬉しいです。
ではまた〜
↓怪しいボタンではないので押してください🥺